昭和53年10月14日 朝の御理解



 御神訓 一、信心の心得
 「忌み汚れは、わが心で犯すこともあり払うこともあり。」

 信心が段々分かって参りますと、分かると言うことは、神様を信ずる事がだんだん出来るようになるという事なんですよね。神様をなら信ぜれる様になればなるほど、だんだん油断が出来なくなって来ます。いわゆる信心がいよいよ血に肉に成らなければ出来ない。そこに精進があるのです。又精進がいるのです。神様が分からない時には、まぁ言うならば不浄も感じないし、汚れも思はないでしょう。けれども信心が分かり出して来るとこれが感じられる。だからそれだけ神様を信じたと言う事にもなる訳です。
 自分の心が生き生きと弾んでおる、心が神様に向かっておる、そういう時には心には不浄もなかたなければ穢れもない。いわゆる信心とは有り難いもんだなぁと言う心がいよいよ募って来る。自分の信心がどんなに乱れておっても、それを平気で居れると言う事は、結局神様をそれだけしか信じてないと言う事なんです。神様が分かっていない、信じれていないと言う事なんです。そこから精進の心が生まれて来なければなりません。
 昨日十三日会で私は意外な事を聞いたんですけれども、若先生がお話しをしておりました。「今日は私は不安で心配で、落ち着いていられない様な心の状態だと」と言うのです。これはどういう事かと言うと、信心の無い人達の不安とか焦燥とかとは違うと思いました。これは神様が段々分かる、特に合楽に働きかけて下さる神様の事実を、目の当たりに見たり聞いたりして来ておるのですから、神様を疑う余地は無い訳です。ところがどうも心が不安だ。という意味の話をしておりました。
 どこを押せばあんなに不安だったり、これだけのおかげを頂いている中にあってと思うんですけど。結局私はねそれだはそれほどに、結局神様が分かって来たということなんです。それはどういう事かと言うと自分の考えておる事、行っておる事の信心、いうなばらばこれは合楽理念を持ってという、その合楽理念にあまりにも離れた、自分の心の状態が不安焦燥になるのではないだろうかと、言う風に私は思いました。
 合楽理念にピッタリと寄り添って行くというかね、そういうなら生き方そういう信心がいよいよ出来て来る時にです、いわゆる瑞々しい心の働きというのは生まれて来る。言うならば瑞々しい生き生きとした有り難いね、これではならんと思うような心も生き生きとして参ります。結局神様を信じておる分かっておるけれども、それに対する言うならば修行の面の、バランスが崩れた時に不安に成って来るんだと言う事でございます。
 そこでならば例えてまぁ申しますならばです。どういうところからそういう不安とか落ち着かないとかというのが出来て来るかと、まぁここ、二、三日私がもらしておりますことは、これ本当に私の寿命と言うかもう、御用済みというのではなかろうか、余りにもあれやらこれやら心に描いておった思っておった様な事が成就していく。あれも片付いたこれも出来たと言う様な感じがする。という程しに今私はお陰を頂いておる御繰り合わせを頂いておる。よく申しますよね。もうあれも出来たこれも安心と言う風な。
 そしたらそのう亡くなられた。私が言う私が亡くなるとかお国替えとかということは、私の心の中にはそのう不安とか焦燥があって言ってるんじゃないんです。いつならお国替えのおかげを頂いても、心に言うならばまぁ申しますならば安心のおかげを頂いて、あの世この世という境が無いほどしに、人間は一生生き続けると言う事は出来ません。何時かはおかげを頂く為には、それならあれも成就これも成就のおかげを頂いて心安らかに、言うならば大往生のおかげを頂かなければならない。
 まぁ私共はそれを願っている。ですからそういう願いが成就して来た。そしてこれから合楽の発展、合楽のいよいよご神願が、合楽に掛けられる御神願がご成就に相成ります所の、その基礎である所の土台である所の今日が出来た。これからは子供達を始め信者一同の方達がね、この道さえ行けば絶対に間違いないという合楽理念もほぼ確立したね。ですから言う事は無いのである。ところが若先生がまぁ例えばです。「今親先生が亡くなってもらったら大変な事じゃ。
 さぁ今から5億も6億も掛かると言う様な、御造営が始まろうとしておるのに、親先生がばたっと倒れどもするなら、これはもうどうこん出来んがと言う様な事をふっと思うたら不安になる。もう他に思われない。あの人が不安であるとか、どうも心が落ち着かないとか言った様な事も、これだけのおかげの中にあるのですから、そんな事思うと言う事はその事でもしとかにゃないと私昨日思ったんです。ところが私自身のお国替えということやらは、いかに考えてもよし今お国替えのおかげを頂き。
 目をつぶらして頂いても、私は安心していわゆる神様にそれこそ、まぁお礼を申し上げながらお国替えして行けるだろうとこう自分で思うんです。まぁそう言う様な話をしておりましたら、まぁ西岡先生なんかはその話を聞いた途端に、私と西岡先生は歳はだいたい同じですかね、私が少しばっかり月の上で言うと私の方がちっとばっかりお兄さんというだけぐらいで、年友達同じぐらい。私が例えばお国替えする分は、誰も特に差し支え無い。まぁ私の周囲には子供達どんがおるぐらいのことだと。
 親先生はそう言う訳にはいけん。神様の大きな願いが掛けられてあるし、これだけ沢山のご信者がまぁ言うならば路頭に迷わなければならない。もし私に八十までも生きる、言うならば定めというものがあるものならば、私に残されている命を親先生に差し上げても良いという程にし真剣に思えたと言う。それを思ったら何か知らんけども悲しゅうなるというのではない、感動という訳でもない、何か訳きゃ分からんようなその涙が込み上げたと、言う様な発表を先日しておられました。
 私は何気なしに言っておる事が例えば、これは私の方の若先生にそれが響いたかどうかはそれは分かりませんよ、何が不安か焦燥か私には分かりませんけれども、今あの人が言うなら今ころっと親先生が逝ったら、どうなるだろうかともし思わなければ不安焦燥なんて起こるはずがない。それをならそういう雰囲気をちょと気付いた、なら末永先生がね翌日早速ブラジル開教十年のお祝い、お祭りがねある時にはどうでも親先生ご夫妻にブラジルに来て頂かなければならん。
 その言うならばお届け正式にお届けをしてそのうお願いをさして頂いた。してみるとこれから先まだ私はその時に、「ははぁ私今こんな事を思いよるけれども、ははぁまだ十年間は大丈夫かいな」と言うくらいに私は神様を信じている訳でございます。また御取次を頂くと言う、御取次を願われる人の真心というものを、私はそれくらいの心でキャッチしておる訳です。だからはぁ私は二年、三年じゃまだ死なんばいな。ブラジル行きをしなければ逝かない。またブラジル行きから帰って来た時には。
 また誰かがそう言う様なお願いをしてくれたらいい訳だ。とまぁこれは本当に神様が下さる命を十分に、まぁだまぁだ頂かなければならないのに、私の不安じゃないけれどもです、ならそういう気持ちがすきっと次ぎの瞬間には出来ておる。我が心で払う事もあり。忌み穢れは我が心で犯す事もあり払う事もありとね。その御取次をさして頂く前は私の心の中になら犯しておる。それは良い意味悪い意味あいは別として、私はでだんなかろうかと言う様な風な思うということは、みんなにそう言う不安焦燥を与える事になる。
 ところが末永先生がお取次をさして頂く事によって、私の心がその事だけ生死の事については、心が晴れた「ははぁまだ十年間は大丈夫だな」と、ほんの同じ事柄でも払う、自分の心ひとつで払う事もありゃ、犯す事もあると言うのはそういうことじゃないでしょうか。同時に私は今若先生が言う、不安とか焦燥とという皆さんが神様をだんだん信じれるようになる、分かるようのになって来ると。では分かって来る程ね分の信心がまともでない時には心が不安になって来る、でなかなければおかしいです。
 自分の信心がいい加減になっておっても、乱れておってもです平気でおられると言う事は、私は神様に対するこんなご無礼はないと神様をなめとる。でなかったら神様を信じていないと言う事になるのではないでしょうか。「はぁこんな事ちゃいかんこんな事ちゃいかん」と神様が分かれば分かる程その思いは募るばかり。その「こんな事ちゃいかんこんな事ちゃいかん」と思うておる時が不安であり焦燥である。そこでこんな事ではいけんという信心が次ぎに飛躍した時に、もうもう心の中にはいわゆるおかげが。
 いわゆるそう言う不浄な心、「そんな事ちゃいかん、そんな事ではいかん」ということが不浄、不浄と言う事は成就しないという事、そこでこんな事じゃいかんという信心からね、それその人なりの信心が出来修行が出来そこにです。言うならば不安が無くなる、不浄が消えていくのです。むしろ安心が生まれ。不成ではなくて成就する必ず。例えば親先生が今ころっと亡くなったところでです。この信心さえ間違いなく頂いていけば成就しないことはない。
 その為にはいよいよ信心を成就しなければならない、いよいよ本気で身につけなけらばならない。油断も隙もと言うと大変厳しい様ですけれど、いやそれが本当に自分の血に肉に成って来なければならない。そこには不安は無い焦燥は無いと言う事になるのです。信心が不信心に成っておっても、不安が起こらないと言うなら、もう本当にあなたは神様を、言うならばなめておる。でなかったら神様を信じていないと言う事になるのです。信じれば信じる程なら、分かれば分かる程。
 このお広前でおかげを頂いているなら私の子供達がです。これ程しのおかげを頂いて不安焦燥なんかが起こってよかろう筈がない。けれども不安だ、神様は分かる神様は信じる。けれども修行がそれに伴っていかない。そう言うときにバランスが崩れるんです。そう言う時に「あぁこんなことでいいのだろうか」と言う不安が生まれて来るんです。まぁ例えば若先生が昨日言っておった様な事が、事実あの例えばそうであるならば、自分の信心が瑞々しい、も少し増しな信心にちょっと飛躍したらその不安は無くなる。
 偶々昨日若先生がそんな事を言っておりましたから。その不安というものは焦燥というものは何処から出て来るのか、何処からそのう不安が生まれて来るのか。それは神様をそれ程に信じる事が出来たと言う事と同時に、その信じる神様のお心に違反しておる、反対しておる自分が不安に成るのです。ですから神様の心にちょっと向きを変えて、瑞々しい信心が修行が出来た時には、もうその不安は無い。いやむしろ成就するおかげになる。この思いは強ようなるばっかりなんです。
 その先の御教えに「用心は前から倒れぬ内の杖ぞ」とこう言う。「用心は前から倒れぬ内の杖ぞ」という。本当言ったらだからそういう信心が何時も出来ておれば有り難いですね。言うならば真面目に実意に丁寧にね、信心をさせて頂いておれば、そう言う不浄を犯すこともなかなければ、不安が生ずるということもない。ところがなかなか実際は出来ません。けれどもねそうあろうと日頃精進し努めておらなければいけない。そして自分の心にちょっと乱れが起こったりね。
 これではいけんと言った様なものが生まれたら、そこに次ぎの元気な心を持ってです次ぎの信心に進ませて頂こう。もうお道の信心ばかりはね、常日頃精進する者には勝てませんです。いわゆる実意丁寧神信心です。それが私は転ばぬ先の杖ということになるのすね。それでも生身を持っておりますから、無精心が出たりだらしなくなったりする。そう言うところをです。例えばそう言う心をしっかりと見極めて、そしてあぁ「神様が修行を求めたもうておるな。
 こんな事ではいかんと言うておられるな」と自分の心の動きひとつをです。そう言う捉え方をさせて頂きます事によって、その心の中にあった不安もね、その心に掛かっておった黒い霧のようなものが、きゅっと晴れていく。そういう信心が素晴らしい。もう本当に用心冥利に尽きるという、信心さして頂くものは冥利に尽きるという、心の状態が頂けて来る。自分言うならば心ひとつで総てを創ると言われるのです。また心一つで総てを壊すとも成る訳です。
 ですから自分の心と言うものは、そういうです不浄の掛からない、おかげになると確信の出来る信心、そういう心が持ち続けられることの為に、信心修行があるのだということでございます。神様が分かって来る、信じれて来る様になる。ところが自分の体が、いわば心がそれに伴うていかない、バランスが崩れる、そこから焦燥、そこから不浄心というものが生まれて来る。言うなら我が身を犯す事になる。
 その事が言うなら、また心一つで総てを壊すと言う事にもなる。それと反対の心こそね、心一つで総てを創るというおかげ。不思議です自分の心がもう瑞々しゅう、神様に打ち向こうておる時には、不安は無くなるんです。安心であり、喜びであり、おかげになると言うこの確信の生活が出来るんです。そういう生活の出来る信心をね、もう本当に実意丁寧神信心を、いよいよ目指さなければいけないという事になりますですね。
   どうぞ。